入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨市政 敗戦後(今から60年位前)を思う

自分は東京、浅草に生まれ山梨への疎開を経て敗戦の年(1945年)蕨に来ました。小学校1年でした。
当時蕨には小学校は第1小学校(現在の北小)と第2小学校(現在の東小)しかありませんでした。住んでいた所は下蕨(現在の中央7丁目,下蕨公民館の近所)で戸田との境に近い所で、そこから古い農道に近い道や仲仙道を通ったりして、第1小学校にかよいました。小学校1年生にとっては、きつくもあり又楽しい通学でした。駅の方へ行ったり、色々な所へ寄り道をしたり、17号国道(殆ど車の通行はなかった)へ行ったり、京浜東北線の付近、塚越以外はすべて登下校の際の遊び場でした。

当時蕨は敗戦の傷跡が残り、駅前にはヤミ市もあったと思います。町長は高橋庄次郎氏がなったばかりか、或いはその前に浅賀氏だったかと思います。都内その他からの移住者がどんどん増え、その子供により学校は教室が足りず午前と午後に分かれた2部授業でした。

指導者層も学校増設、教員の確保,町の復興再生に懸命だったことを子供心に感じていました。分校でしのいだり、南、西小学校、新制第1,2中学校を矢継ぎ早に新設しました。自分は南小学校、第1中学校を卒業し、浦和の高校、都内の大学へと進み学卒後4年程蕨に居て、その後都内を転々としました。

高橋町長ほか、その後の何人かの市長の時代は復興、再生、成長へと町全体の価値観は1つにまとまっていたように思います。自分も蕨を離れその後の事はあまり良く知らず、15年程前に再び蕨に戻った時はあまり市政に関心はありませんでした。

しかし、6年ほど前から市長の在任が長過ぎることが気になりだしました。その後、市との接触で2,3
納得のできないことがあり、いろいろ考えましたが、その根源は32年に及ぶ1人の市長の在任にあると
思いました。

     - 永くなりそうなので、この後はまた明日にします ー