入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

戸塚・大門地域の変遷-7

戸塚・大門地域の主要道路は、日光御成道⑳と「里道」とがあります、この里道とは通称で吉葉・西立野・安行線と、この路線と西立野で分かれて戸塚東側の台地と低地の境を北に走っている県道のことです、御成道開通以前の戸塚地域の主要道路はこの里道だったのでしょう、この里道沿いでは台地上では水害などの心配がないし、目の前が水田であって運搬の綾瀬川を利用できたからです

戸塚・大門地域では1935年(昭和10年)ころまで綾瀬川①を舟運に使っていました、綾瀬川沿いに3つの河岸ー畷(なわて・1757年・宝暦7年に設けられた)・銀蔵・中の島ーがありました、船は15石から50石船が合わせて32艘でした、これらの河岸から農産物などを浅草蔵前まで運んでいき、帰りには代金のほかに日用品や、ときには肥料(人糞)を引っ張ってきました

大正初期には、橋が架けられて帆を張った大型船が綾瀬川を通れなくなったため、帆を張らないポンポン蒸気船が主力で走っていました、そして、このころから自動車の普及なども加わって村社会も道路運送・交通が徐々に盛んになってきました

戸塚④では大正の終わりまで曲がりくねって凹凸の激しい御成道の利用が中心で、ここを「テトバシャ」が走っていました、そして昭和に入る前後に浦和駅から越谷駅までのバスが大門を通るようになりました、また、鳩ヶ谷から赤羽駅までのバスも通じました、戸塚からは大門、鳩ヶ谷までそれぞれ自転車を使うか歩き、そこからバスを使えば鉄道が利用できるようになりました、それから数年を経て1930年ごろ戸塚地域を鳩ヶ谷行きのバスが開通し、鳩ヶ谷まで歩く必要はなくなりました