入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

イメージ 2

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-23

戸田市元蕨にあったと思われる蕨城(館)は、それらしき地名・地形や伝承の多さからみて1300年代後半から1400年代にかけてかなりの長い期間あったのではないかと思われます(これは自分の勝手な想像ですが、蕨市の旧御殿町にあった期間は比較的短く、それに比べ戸田市元蕨にあった期間が長かったと思われます)、ただ、戸田市元蕨の城(館)は現在の地形からは考えられない立地状況のなかにあったようです

上に掲げた航空写真は昭和22年に蕨と戸田・元蕨を写したものです、黒く写っているところは水田で白く写っているところは人家及び道と思われます、これをよく見ますと戸田・元蕨は水田に囲まれた中に浮き島のようになっています、昭和22年でこの状態ですから、蕨城(館)が築かれた1300年後半は周囲は水量の豊かな水域であったと思われます

この時代に他のところでもよくあった水面・沼に囲まれた僅かな地面に、守りを重視して城(館)築いたのでしょう、上に掲げたましたが、同じような立地条件にあった同盟者の太田氏の岩槻城を模したとも思われます

蕨の旧御殿町に城(館)を移した理由は他ににも理由はあったのでしょうが、もっとも大きな理由は囲んでいた水面・沼が築城時よりだんだんと少なくなり、重視していた防御という条件が果たせなくなったからと思われます

尚、戸田・元蕨にあった渋川氏の城(館)の遺構がほとんど残っていないのは、徳川時代の始め中山道を造る際に故意かどうかはわかりませんが、除去・廃棄されたのではないでしょうか、徳川時代に徳川氏(伊奈氏)の行った在住の豪族や旧渋川氏家臣への対策は、また、後の項で述べてみたいと思います