入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

川口・南平柳地域の変遷ー4

南平柳地域は川口地域と同様に低地でありながら1-1図に見られるように、荒川堤外に若干の湿地が認められるほか田畑、そしてその間に松・杉と雑木の林があり、薬林寺⑮・光音寺⑯・実相寺⑰などの寺院や民家が点在する田園風景が広がりっています

この地域は1889年(明治22年)の町村合併により、十二田(しわすだ)・樋之爪(ひのつめ)・二軒在家(にけんざいけ)・新井方・弥平衛(やへえ)・元郷・領家の旧村が合併して南平柳村となりました

田と畑が半々で、比較的に堅田であったところを畑に転換したようです、このことは低地の作物の特徴であるクワイ・蓮根が全域にわたって生産され、かなりの量を産出していたことがうかがえます、農業のほかは醤油や味噌の醸造、紡織なども見られます、また農閑余業であろうか、湧水を利用した紙漉きを営む者が多く見られました

先にも触れたように両地域は東流する荒川と南流する芝川に面しており、例年訪れる水害におびえながら明け暮れる地域でした、水害の原因は荒川の普段からの水量の多さに加えて河の蛇行の激しさでしょう、昔の荒川は川口地域の善光寺付近から岩淵町⑱へ曲がり、再び南平柳地域側に返し、さらに南流していました、この蛇行が河口に近いことと重なって流れが緩慢となり、少しばかりの降雨でもたちまち満水となりました、古くからこの川幅は通常60間、出水時600間とされていましたが、実際は700間をはるかに超える幅となったと言われています

これは前近代に較べて水量が多くなったのではなく、人口の増加に伴って河口付近において住宅や工場が堤外にまで建ち並ぶようになり、普段の川幅が狭いのに満水ともなると堤上にまで溢れ、幾筋もの川となるからであったと云われています

たしかに1-2図を見ると、両域とも堤外にまで住宅や工場が建ち並んでいることが認められます、しかし、より下流東京府下の堤外に、多くの住宅や工場が密集していたことも水害を大きくしたのでしょう

特に明治期最大の水害とされる1910年(明治43年)8月の水害は大きく、両地域被害戸数900戸、ほぼ全戸が流失または浸水し、多くの死傷も出ました、また鋳物業に、特に堤外に建てた工場には甚大な被害をもたらしました、明治30年(1897年)代後期に至ると、製品・材料などの舟運による搬出入の便を考えて、工場を堤外に移すようになっていて、これらの工場が軒並みこの水害にあいました