入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑭

戸田に伝わる伝承に”高知原(たかちぱら)”という地名があります、多吹苑ー百の井屋敷ー南原遺跡の付近にあったといわれています、高知=たかしる所、政治を行った所という意味でしょうか、別名が“戸田の御所”といわれた所かもしれません、大正時代まで俗に「たふくえん野」とも云われて天然の湧水の多い所だったようです、”百の井屋敷”と”戸田の御所”が近接してあったのか、或いは同じ所で名前だけが変わったのか、また、それぞれの当主が誰であったのかは、中世の戸田の歴史を考える上で非常に重要なことのようです

又、旧海禅寺は中期入間川(現荒川)の辺近くにあり、旧多福院と同様に堂の完備した立派な寺院であったと云われています(旧多福院には鐘撞堂もあったようです)

そして、川口市芝に”長徳寺”という名刹がありますが、その起こりは”百の井屋敷”内の長徳野といわれた所だと言われています

以上のような伝承に加え『新編武蔵国風土記稿』にある桃井氏に関する記述を考えあわせると、戸田の中世の歴史は複雑で、非常に判りにくいパズルのように思われます、次回からはこの難問に別項で掲示している古代遺跡(南原遺跡他)の調査結果なども加え、自分の想像ともいえる勝手な仮説を申し述べていくことにします