入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑪

この中期入間川沿いの最も川に近い第1の自然堤防は先に述べたように、諸々の工事で上層の部分は失われたのですが、最近、その付近の下層部と思われる地点が発掘調査されて、数多くの遺構、遺物が出土しています、南町、南原、上戸田本村遺跡と呼ばれているところです(戸田の各遺跡については、詳しい報告を近いうちに掲載します)

これらの地点は先に掲示した地形図を見ていだければわかるのですが、上戸田川が中期入間川付近の沼沢水域に注ぐところの沿岸で、自然堤防の突端部と云えます、鳩ヶ谷市毛長川沿いの自然堤防の突端部とも云える鳩ヶ谷市三和遺跡と同じような地理的条件のところです

弥生時代以降、人々が開発し居住したところで、その後、江戸時代以前までは戸田の重要地点であったと思われます

川口、鳩ヶ谷でもそうですが、自然堤防が水域に臨む地点には、多くの湧水があり居住条件に適したところと云えます、この第1の自然堤防もいたるところに湧水があり、百も井戸がある屋敷という意味から「百の井屋敷=もものい屋敷」或いは「たふくえん=多吹苑」とも云ったのでしょう

これらの地名は何時ごろから伝承されたのかわかりませんが、屋敷・苑と言われたことから普通の村人の居住したところたは思えません、鎌倉時代以降、吾妻鏡に載っている戸田六郎やその他のリーダー、或いは金子氏、渋川氏がかかわっていたのではないかと思われます

百の井屋敷に近くには、大正の頃まで「かきがら」という地名のところが残っていました、その辺一帯は大正時代の荒川大改修が行われたところですが、地下約2メートル位のところに「かき貝」の殻が30センチの厚さにかたまった層をなし、各層の間には土をはさんで3段階に重なり、その状態のところが数百メートルに及ぶというものでした、このことから、百の井屋敷の近辺は太古は海であったとも思われます

このように、百の井屋敷付近は開発・居住、交易・流通などの面で中世末までは戸田で重要な位置を占めていたと思われます、蕨城の場所を考える上で避けて通れないところでしょう