入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑩

その後、昭和7年に中山道の大改修のおり、荒川の左右両岸に、大堤防ができましたので、旧堤は取り払いとなったのですが、徳川時代には、荒川右岸(東京府側)には堤防といったものはありませんでしたので、戸田の前新田から直ちに志村坂下までの幅が洪水のときの流路となったのです

このような訳で、現在あるような人工大堤防が左右両岸に出来たということは、如何に第1自然堤防の土を多量に使用したかがわかります

以上、種々の理由によって荒川左右沿岸が低く低くとなってしまったのです、従って、弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸初期時代までの中期入間川沿いの自然堤防は非常に高かったと思われます

また、江戸初期(寛永6年)頃までの、入間川の氾濫による洪水は、北は大宮台地と、南は志村坂下までの幅約10kmの広々とした地域を流れればよかったわけですから、入間川沿いにあった3本の自然堤防は水害にあうことは極めてまれであったのでしょう

そのため、これらの自然堤防上には戸田の弥生時代以降の発展を物語る遺跡が多く認められ調査されています、また、遺物も豊富に出土しています、これらの出土品は多くは保存されていますが、なんといっても、中世の戸田を解明できたと思われる重要な地域が、大正時代に行われた荒川河川改修工事、更に昭和初期に掘削したボートコース設置のために何の関心もなく掘られ、見逃しててはならない遺跡・遺物を沢山失ってしまったのです、誠に残念なことです