入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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”夢まぼろしのような蕨駅前のダンスホール・昭和10年”-2

蕨市立歴史民俗資料館 紀要 第7号より

日本最初の営業ダンスホールは、大正9年(1920年)3月、横浜の鶴見にあった遊園地「花月園」内に開業した「花月園舞踏場」でした、経営者は、花月園と同様新橋の料亭「花月」の前経営者平岡廣高でした(註4)

花月園舞踏場」は、日本風のつくりで2百坪の広さがありました、毎週の水・土・日曜が営業日で、入場料は男女2人を1組として2円で、当初より生バンドによる演奏が行われていました(註5)

花月園舞踏場」の開場以後の東京でのダンスホールは、大正12年(1923年)の関東大震災をはさみながらも徐々に数を増してゆき、昭和4年(1929年)3月21日付『東京朝日新聞』によれば、「市内のダンスホールは23ヵ所に達し、ダンサーは5百名」という状態になったとあります(註6)

しかし、当局はこの状況を歓迎せず取締まりを開始し、同年には「舞踏場取締規則(警視庁令第46号)を施行しました

この規則の施行後、東京市内の大部分のダンスホールは廃業に追い込まれ、以後はいわゆる8ホール(「和泉橋舞踏場」「銀座ダンスホール」「国華ダンスホール」「新橋演舞場」「帝都演舞場」「日米舞踏場」「ボールルーム・フロリダ」「ユニオンダンスホール」)時代となり(註7)、この状態は、昭和15年(1940年)10月末まで続きました(註8)