入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー201

一方、職人についは『小田原衆所領役帳』や後北条氏の5ヵ条の定書、太田氏房の3ヵ条も定書に見えている「或商人、或細工人類」などの文言は、明らかに一般の「百姓」身分に対する「商人」「細工人=職人」身分の成立を示しています

また『小田原衆所領役帳』には26人の職人が見え、河越などの支城付近に給分地を得ており、うち10人の職人は後北条氏の「御蔵・みくら」からの知行である「御蔵出分」を支給されています、このように後北条氏は、職人衆までも支配下に組込んでいました

市域周辺で活躍した職人集団の例として新座の大工の動向が注目されます、さいたま市浦和区本太氷川社の宮殿銘によると、宝徳3年(1451年)9月24日に、当地の地頭高埇左衛門盛影が「大工新坐次郎三郎かぬ満」「同さえ門二郎」に命じて、神輿と鳥居を造立させ、同社に寄進したとあります

また文明15年(1483年)8月10日銘の川口市安行宝厳院の木造厨子銘に、宝厳院堂舎の再建に当たった大工として、「大工武州新坐左衛門次郎盛重、子息左衛門三郎四郎の名を記しています

本太氷川社宮殿銘の大工、「にいくら・同さへもん二郎」と安行宝厳院厨子「大工武州新坐左衛門次郎重盛」はおそらく同一人物とみられ、宝徳3年、当時新座大工の総棟梁であった次郎三郎かぬ満の次男(おそらく親子であろう)として、宮殿・鳥居の造立に当たった左衛門次郎が、やがて32年後の文明15年に、かぬ満の跡を継いで棟梁となり、子息左衛門三郎や小工らを率いて宝厳院堂舎の再建にあたったと考えられます

これらから新座に居住し活躍していた新坐次郎三郎かぬ満と同左衛門次郎盛重を中心とする大工集団が、新座郡内はもとより、荒川(中期入間川)を越えて足立郡内の浦和・川口方面まで活躍の場を広げていたことがわかります、彼ら職人集団は、領主によって保護され領主に奉公し、代々世襲によって技術伝承を図っていたことが分かります