入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー146

天文15年4月、河越夜戦で上杉氏と古河公方連合軍が北条氏康の急襲に敗れ、以後武蔵国後北条氏の優位が確定しました、翌16年9月、資時の病死後、岩付城主となったのが弟の資正です、資正は、美濃守、後に入道して三楽斎道誉と称しました、資正は、後北条氏派の家臣を一掃し、後北条氏と対決する姿勢を明確にしました

しかし、後北条氏の上杉・太田方への切り崩し工作は続けられ、天文21年に関東管領山内上杉憲政が越後の長尾影虎(後の上杉憲信)のもとへ逃れてからは、上杉方の部将たちも次々と後北条氏の方となり、関東でなお反後北条の立場をとっていたのは、岩付城主太田資正、忍(おし)城主成田長泰、箕輪城主長野業盛などになってしまいます

こうした中で、資正は領国経営を押し進めていきました、資正の領国は、埼玉・足立・入間・比企の諸郡にまたがっており、岩付城を本拠地として、松山(比企郡吉見町)・石戸・丸山(北足立郡伊奈町)・三ッ木(桶川市)・寿能(さいたま市大宮区)の諸城があり、領国防衛の拠点となっていました

永禄3年(1560年)8月、越後より長尾影虎が関東に出陣すると、太田資正はこれに従い、翌年の3月の小田原攻めには先鋒を務めるなどの活躍をみせています、しかし、その後、後北条氏は再び勢力を盛り返し、同6年には松山城を奪取しました、このため資正の領国内にも後北条氏の勢力が浸透し、北足立は後北条氏の影響下となってしまいます