入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー145

この間に、蕨城が北条氏綱に攻められたようです、年は定かではないのですが、4月1日書状「足利高基書状」に、3月20日夜、氏綱は蕨城を攻撃して門橋を焼き落とし、江戸城に帰ったとあります、文中に小田氏と土岐原氏の一戦(大永3年のこと)を去年のこととしているので、これは大永4年ではないかと思われます

大永5年、資頼は家臣の渋江氏の内通により岩付城を失い、足立郡石戸(北本市)に退却しましたが、享禄4年(1531年)には岩付城を攻撃して渋江氏を討ち取り、再び同城を回復しています、資頼の勢力範囲は、岩付城を中心に埼玉郡比企郡の一部、足立郡淵江郷(東京都足立区)あたりまで及んでおり、蕨市域もその支配地に含まれていたようです

天文2年(1533年)、資頼の嫡子資時が岩付城主となりました、資時の時代には、後北条氏の武蔵進攻が活発しており、その対応策をめぐり、上杉家の家臣として反後北条氏の立場をとる父資頼・弟資正と、後北条氏と妥協を図りながら太田氏の存続を考える資時との間に対立が生じてきます

資時については、『太田家譜』などに記載はないが、『藩翰譜(はんかんふ・新井白石編・1702年)には「資時、信濃守」、『太田潮田系図』には「信濃守、法名月岑全鑑、武州岩付城主」と記されています、資時の署名を持つ文書は未発見ですが、「全鑑」署名の文書は、5点が現存しており、文書の内容などから全鑑が太田資時ではないかと推定されています