入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー144

道灌は主君扇谷上杉定正に仕え、扇谷上杉家の名声を上げるのに大いに功績がありましたが、次第に定正と対立するようになりました、道灌は、定正が彼の意見を用いず、またその功績を正当に評価しないことを不満に思い、一方定正は、道灌の力量を警戒し、次第に反発を感じる様になったのです

そして、ついに文明18年7月26日、定正は相模国糟谷(かすや・神奈川県伊勢原市)の館に道灌を招き、殺害してしまったのです、以後、太田氏の動向は不明な点が多いのですが、道灌没後の太田氏は略系図にもあるように江戸系と岩付系とに分かれたようです

岩付太田氏の初代にあたる太田資家(すけいえ)については、生年など不明な点が多いのですが、太田氏の子孫である太田資武(すけたけ)が寛永年間(1624~44年)に作成した「太田資武状」によると、資家は資長の甥とされています、資家の事跡は不明ですが、文明4年ごろ岩付城主となったと云われています

大永2年(1522年)資家の死去に伴いその跡を継いだのは、子の資頼でした、資頼は19歳で入道し、道可と称しています、このころは北条氏綱の時代であり、積極的に武蔵進出を図り、大永4年正月には江戸城を手中に入れ、8月には北進して足立郡三室郷(さいたま市)に迫りました