入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー143

一方、「別本太田氏系図」には資国・資治・資兼・資益・資通・資房・資清とあって、他の系図には見えない資益・資通の名が見られます、資益は、康安元年(1361年)に関東公方足利基氏から父資兼の遺領である武蔵国の小机・稲毛・広沢・岩淵・志村・中野の地を賜り、永和4年64歳で没したと言います

資益の所領は、武蔵国の橘樹(たちばな)・豊島・多摩の三郡にまたがっており、相州系太田氏とは異なった武州系太田氏が存在したことを伝えています、いずれにせよ、南北朝時代の太田氏については、不明な点が多いのですが、恐らくは、資国の相模国への移住後、何家かに分かれ、各地に分散していったのでしょう、そして、資房の代より扇谷上杉氏に仕えるようになったと思われます

太田資清は扇谷上杉持朝に仕え、その執事として「関東無双の案者」とその英名をうたわれ、文武両道の達人であったと言われています、資清は、宝徳から亨徳(きょうとく)年間(1449~55年)にかけて主家扇谷上杉のために各地に転戦し、その間、入道して道真と号し、康正元年(1455年)家督を子の資長に譲りました

家督を継いだ資長は、翌年には江戸城の築城に着手し、父道真と共に岩付・河越両城を築きました、彼は、父同様に文武両道の士でしたが、軍法にも詳しく足軽戦法を得意としました、なお、入道して有名な道灌の号を用いるようになったのは、文明8年(1476年)ごろでした