入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー147

岩付太田氏初代の資家の領国経営についての詳細はわかっていませんが、資頼の領国経営に関しては、3点の文書が残されています、そのうちの年未詳8月21日付道祖土図書助(さいどずしょのすけ)宛「太田道可判物」によれば、道可は道祖土図書助に対して棟別約4間(軒)分を免除し、給分として与えています

また文中に「諸公事以下のこと等は、自余百姓同前たるべく候」ともあって、道祖土氏は百姓と同じ様に公事を負担させられていたことがわかります、道祖土氏は、比企郡八林村(比企郡川島町)在住の土豪で、資家の代から岩付太田氏に仕ええていました

資頼は、有力農民としての性格を持つ国人層を年貢免除の特権を与えることによって被官化し、自分の家臣団の主要な構成員として編成していったのでしょう

こうして資頼によって形づくられた岩付太田氏の骨組みは、次代の資時を経て資正に受け継がれていきました、資正は、在地給人層や有力な寺院の把握に意を用い、諸制度を整備するなど、領国の経営におおいに努めています

永禄4年11月21日付「太田資正判物写」によると、資正は比企郡内の在地土豪の比企左馬助を郡代に任命しており、資正が領国内の郡ごとに郡代を置いていたことがわかります、また同時に資正は、領国内へ奉行人奉書や印判状を発給するようになっており、太田氏の家政機構が整備され、体制が確立してきたことをうかがわせます