入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー82

承久の乱においては、足立氏の活躍はめざましく、その結果として、元春の子遠親は、承久の乱の勲功として讃岐国本山庄地頭職(香川県三豊郡豊中町)を給与されました、しかし、後に荘園領主石清水八幡宮)側の要求により幕府が地頭職停止を認めたため、領主側に返付させられています、その後、足立氏にはその代わりとして豊前国佐田庄地頭職(大分県宇佐郡安心院町)が与えられたようです

また、遠元の孫・遠政は承久の乱の恩賞として丹波国氷上郡兵庫県氷上郡青垣町)の地頭職を与えられ、その一族は氷上郡の北西部に繁栄したとされ、現在のその地に足立や安達の姓を名乗る家が多数存在します、さらに、この他にも実名は不明だが幕府軍として「あたちの太郎・おなしく三郎」「あたちのけんさへもんのせう」らの名がみえます

足立氏の将軍家とのかかわりは遠親以後も変わらず、摂家将軍頼経と頼嗣(よりつぐ)や親王将軍宋尊(むねたか)などの上洛や鶴岡八幡宮参詣などへの随行として見られるます、特に遠親の子基氏・直基兄弟は、一族と思われる道氏、佐衛門三郎、佐衛門四郎、政遠、遠時らと共に将軍の供奉人(ぐふにん)として頻繁に近侍しているのが『吾妻鏡』に見られます

これらのことは、将軍家出御(しゅつぎょ)の随行や朝廷との連絡役などとして、依然、足立氏が幕府内での地位の高さを保っていたことを物語っているのでしょう、また、それと同時に足立氏の嫡流家だけでなく、一族のなかにも御家人として将軍家に奉仕するものも現れるなど、その繁栄ぶりがわかります、ただ、遠政・遠信父子は延暦寺の神輿動座に関係し佐々木高信とともに流罪となっていますが、その後は遠政の子基政(政基)の系統が活動しています