入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー80

北条時政のあとを継いだ義時は、さらに有力御家人の抑圧政策を進め、建暦3年(1213年)5月和田義盛らを攻め滅ぼし、侍所別当の地位を得ました、以後北条氏が政所と侍所の別当を兼ねるようになり、名実ともに執権政治が確立しました

ところが承久元年(1219年)1月、鶴岡社頭で将軍実朝が頼家の遺子公暁(くぎょう)により暗殺されるという事件が起こりました、実朝を通じて幕府内に公家政権の影響力を強めようとしていた京都の後鳥羽上皇は、この実朝の暗殺を鎌倉幕府御家人体制の動揺とみて倒幕を決意しました

承久3年5月、上皇は京都守護伊賀光季(みつすえ)を討ち、執権義時追討の院宣を全国に発しました、いわゆる「承久の乱」の勃発です

これに対して尼将軍と呼ばれた頼朝の妻政子が、武蔵国御家人らを前にして頼朝以来の恩顧を説き、幕府への忠誠を誓わせたのは有名な話です、こうして士気を高めた幕府軍は、京都に攻め上り上皇軍を難なく退けました

この乱に勝利を収めた幕府は、西国を中心に3千余箇所の所領を獲得し、京都の公家政権に対して優位に立つとともに、獲得した所領には戦功の恩賞として東国の御家人を地頭に任命し配置しました、このことは東国御家人の西国移住を促すとともに、幕府の権威が西国にまで拡大することにもつながっていきます