入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー79

武蔵国には秩父一族や足立氏のような有力武士の他に、武蔵七党をはじめ数多くの中小武士団が存在していました、幕府草創期にあっては、この武蔵国を押えることが北方に勢力を張る奥州藤原氏から幕府の置かれた鎌倉を守ることであり、軍事面では欠かせないことでした

さらに武蔵国は、これらの武士団と荒野の開発がもたらすであろう潜在的な経済力を秘めた国でもありました、また、奥羽、北関東、東関東と鎌倉を往来する際の水上・陸上交通の要地でもありました、頼朝挙兵後の武蔵は、鎌倉にとって軍事・経済・交通上の最重要地として、頼朝政権の発展と安定のために欠かせないものでした

北条氏も武蔵国掌握に積極的に取り組みますが、大きな障壁となったのは、比企氏・畠山氏・の存在でした、特に比企能員(よしかず)は二代将軍頼家の外戚の地位にあったばかりでなく、武蔵国衙行政権に深いかかわりを持っていた河越氏・平賀氏・足立氏とも姻戚関係にありました

北条時政・義時父子は建仁3年(1203年)9月にまずこの比企氏を謀殺し、元久2年(1205年)には畠山重忠父子を、次いで源氏一族の平賀朝雅(ともまさ)を滅ぼし、武蔵国支配下に置くことに成功しました

それから1年半後の承元元年(1207年)に、義時の弟時房が武蔵守に任命され、武蔵国務を担当することとなりました、幕府は時房を通じて武蔵国の地頭らに荒野の開発を命じています、武蔵国が将軍家の知行国(特に関東御領といわれます)として幕府財政とも深いかかわりを持つことから、土地の調査が行われ、大田文(おおたぶみ)といった土地の基本台帳が作成されました

武蔵守に時房が就任して後は、武蔵守は代々北条氏の嫡流家がこれを継承し、相模国とともに武蔵国を幕府支配の要としました