入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー78

やがて、頼朝が朝廷に推挙していた源氏一族の平賀義信が武蔵守に任命されると、頼朝は武蔵国の実質的な知行国主となりました、武蔵国国司平賀義信によって治められることになりましたが、他国に見られる守護は置かれませんでした、それは武蔵国留守所総検校職にある河越氏を意識してのことと思われます、義信の治政は頼朝の意によくかなったものであったらしく、その事績は武蔵国衙の府庁に壁書として貼り出され讃えられました

義信の武蔵守就任で秩父一族による武蔵国衙および武蔵武士に対する支配権は、相対的に後退せざるを得ませんでした、特に河越重頼義経の失脚に伴い処罰されると、武蔵国留守所総検校職は畠山重忠に引き継がれました

しかし、元久2年(1205年)6月に重忠も北条氏に追討されてしまい、総検校職は北条氏に掌握されました、後に河越重頼の子重員(しげかず)が、承久の乱での功績をもとに武蔵留守所総検校職への復帰を求め認められましたが、重員の子重資(しげすけ)が安堵されたのを最後に見られなくなります、すでに実質的な国衙の行政権は北条氏が握っていたと考えられ、留守所総検校職は形骸化した名誉職的ものにすぎなくなっていたのでしょう