入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー76

こうした中で注目されるのが、東国武士としてただ一人公文所寄人に任命された足立遠元です、遠元の娘の一人は内乱以前に後白河上皇の近臣藤原光能(みつよし)の妻となっていました、また光能の姉妹が以仁王(もちひとおう)(後白河天皇子)の妻となっていた関係などを考えると、遠元は京都に通じた人物として一目置かれていた存在であったのでしょう、こうしたことから東国武士の中でもただ一人公文所の寄人として選ばれたのです

翌年、遠元は小山有高の武蔵国威光寺領への押領に関して、その裁許状に寄人として署判を加えています、遠元の娘のもう一人は秩父一族の畠山重忠などに嫁していることから、幕府草創期における足立氏の存在の大きさをこうした姻戚関係からも察することができます

また、遠元は鶴岡八幡宮参詣や同宮の放生会(ほうじょうえ)などの行事において頼朝を供奉(ぐふ)していますが、建久元年(1190年)11月に頼朝が上洛し右近衛大将拝命のために後白河院のもとに参じたときも随行しています

また、頼朝の命の恩人であった池禅尼の子息平頼盛を京都に送る餞別の会に臨席したのは、遠元をはじめ「皆京都に馴るるの輩」でした、公家と姻戚関係のある者の末端に連なる国衙関係の者、大番役を勤めるため京都に在住した経験のある者らは、公家の風習にも馴れていたことから宴席などで公家を接待する役割を担当したのです

東国武士が礼儀を知らない無骨者の代名詞とされる中で、これらのどれにも該当し経験を積んでいた足立遠元が頼朝の晴れの舞台の随行者に選ばれたのは当然のことでした、この上洛で遠元は勲功の賞として「左衛問尉(さえもんのじょう)」に任官しました、関東武士のうち10人だけがこうした名誉に浴していますが、それだけにこの任官は、遠元の面目躍如たるものがありました、それは頼朝の遠元への期待と信頼の大きさを物語っているとも言えます