入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー75

このようにして、東国にその政権の基盤を固めつつあった頼朝でしたが、平氏の勢力も以前として脅威でした、このため頼朝は、武蔵武士との間に、所領を核とする「御恩」と「奉公」という封建的主従関係を結び御家人として組織するなど、着々と体制の基礎固めを行っていきました

一方、頼朝の挙兵に呼応して各地に源氏一族が蜂起しましたが、なかでも木曽谷で蜂起した木曽義仲は、一時は京都の占領に成功しました、しかし、義仲は「武士の棟梁」の立場をめぐって頼朝と対立し、元暦元年(1184年)1月、頼朝の派遣した大軍と戦い敗死しました、頼朝はさらに同2年3月平氏長門国山口県)壇ノ浦に攻め滅ぼしました

頼朝はこうした内乱の過程において、鎌倉政権の機構整備を進めていきます、既に治承4年11月には御家人の統轄機関として侍所(さむらいどころ)を設置し、その長官である別当(べっとう)には三浦一族の和田義盛を任命しました、さらに元暦元年11月、一般政務をみる公文所(くもんじょ)(後に政所の一部署となりますが)を開設し、また裁判機関である門注所を設置しています

公文所(政所)の別当には大江広元を、問注所の執事(長官)には三善康信を任命し、長官以外にも寄人(よりうど)(構成員)と呼ばれる職員が置かれましたが、彼らの多くは行政実務に優れた京下りの官人(役人)でした、また、文治元年(1185年)11月地方機関として諸国に守護・地頭を設置しましたが、その政治的意義により鎌倉幕府の成立をこの時点に設定する考え方が多いようです