2011-05-05 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー70 こおような強固な関係を生み出す要因の一つに、両度の乱に出陣した武士たちに対する恩賞問題があります、後三年の役の後、朝廷はこれを私闘とみなし、公的な恩賞を行わなかったため、義家は私財を投じて従軍した関東の武士たちをねぎらったのです これを契機に、源氏と坂東の武士たちの間には強い信頼関係が生まれることとなり、関東の武士団の多くは、源氏を武門の棟梁と仰ぎ、私的な主従関係を結ぶようになったのです 一方12世紀中ごろ、朝廷では皇位継承をめぐり後白河天皇を立てた鳥羽法皇と崇徳上皇との間で対立が起こりました、また摂関家においても、関白藤原忠通と弟の左大臣藤原頼長が、関白の地位をめぐって対立していました 保元元年(1156年)鳥羽法皇が没すると、忠通と結んだ後白河天皇と頼長と結んだ崇徳上皇との対立は頂点に達しました、上皇側は源為義・平忠正などとともに挙兵し、天皇側は源義朝・平清盛らを率いて対抗しました いわゆる「保元の乱」です、戦いは天皇方の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐国に流され頼長は戦死、為義・忠正らは斬首されます