入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 蕨の歴史ー69

平忠常の乱発生と同時期に、奥州では、「俘囚の長」とよばれる在地の豪族が台頭してきました、なかでも勢力をふるったのが安倍氏です

安倍氏は勢力拡大とともに国司の命令にも従わなくなり、さらにその勢力を南へ伸ばそうとしました、そこで、陸奥藤原登任(なりとう)は安倍氏を攻めましたが、敗北してしまいます

朝廷は永承6年(1051年)、平忠常の乱に功績のあった源頼信の子頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命し安倍氏の追討を命じました

頼義は当時、関東において声望の高かった源氏の棟梁でした、安倍氏は一旦は頼義に帰順しましたが、後に再び乱を起こしました、頼義は討伐に苦戦しましたが、出羽国の豪族清原武則(たけのり)の協力により、康平5年(1062年)にこれを平定しました(前九年の役)(ぜん九年のえき)

この乱から20年後、今度は清原氏一族の内訌から再び奥羽の地に争乱が起こりました(後三年の役)、この乱の鎮定にあたったのは、永保3年(1083年)陸奥守兼鎮守府将軍に任命された源義家でした、義家は頼義の子で、寛治元年(1087年)に乱の鎮定に成功しています

この二度の乱には、多数の関東の武士たちが頼義・義家に従って出陣しています、これらの武士の中には、官符によって徴募された者たちとは別に頼義・義家と私的な関係をもつ武士団も含まれていました

私的な武士団の中核となるものは郎党と呼ばれており、彼らは国司に従う郎党とは異なり、主人の地位の変動に関係なく最後まで主人に仕える者でした、こうした強固な人的主従関係は、武士団において特徴的なものであり、義家のころから多く見られるようになります