2011-04-30 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー65 こうしたなかで、承平8年(938年)2月、武蔵国において足立郡司武蔵武芝と武蔵権守興世王(おきよおう)・武蔵介源経基(つねもと)との対立が起きました、新任の権守興世王が足立郡に入り、その状態を調査しようとしたところ、これを足立郡司武蔵武芝に拒まれたのです 興世王らの目的が郡内の富の収奪にあることを察した武芝が、これを防ごうとしたことによるものでした、これに対し興世王らは兵力をもって足立郡に入り、武芝の財物をはじめ農民の私物まで押収して引き上げました この知らせに接した将門は、武蔵国に入り調査を行い、両者の関係は一時和解へと向かったのですが、経基は将門らが攻めてくるものと疑い、天慶2年(939年)3月、太政官に将門と興世王の謀反を訴えました、これを知った将門は、自分の無実を述べ、この事件は一応の決着をみました その後、百済王貞連(さだつら)が武蔵守として赴任すると、興世王との間に不和が生じ、興世王は将門のもとに身を寄せることになったのです、また、常陸国の豪族で国司藤原維幾(これちか)と対立して同国を追われていた藤原玄明(はるあき)も、将門の庇護下に入り、反国衙の姿勢をあらわにしました