入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー63

こうした警察権の強化にもかかわらず、昌泰年間(898~901年)には僦馬(しゅうば)の党という馬を利用した強盗の集団が、東海道東山道をまたにかけて暴れ回っていました

昌泰2年(898年)の上野国司の上申によると、彼らは関東諸国の富豪たちで、以前から馬を利用して東国の商業・交易を担っていましたが、実はその荷物は掠奪したものであり、国司が彼らを捕えようとしても、巧みに隣国に逃れてしまい、取り締まることは難しいとのことでした

このような報国を受けた政府は、相模国の足柄の坂と上野国の碓氷の坂に関所を設け、公験(こうげんー証拠)を調べるよう命じ、次いで同3年には、東海道東山道などの諸国に対し、足柄・碓氷の両関の通過には過所(かしょー通行手形)が必要であることを伝え、さらに同4年には、群盗の鎮定を願って諸社への奉幣を行い、翌年には推問追捕使(ついぶし)を派遣しています

しかし、このようなことで効果があがるはずもなく、武蔵・上野・信濃・甲斐における群盗の被害は、甚だしいものがありました

こうした中にあって国衙支配内部の矛盾も、次第に表面化してきました、延喜19年(919年)、武蔵権介(ごんのすけ)として赴任し、任期満了後も帰京せず武蔵国箕田郷(鴻巣市)に土着していた源仕(みなもとのつこう)が、官物を奪って官舎を焼き、国府に襲来して武蔵守高向利春(たかむこのとしはる)を攻めようとした事件がそれです

このように、地方政治の乱れは深刻化し、各地に無法地帯が出現しました、そして、藤原一門によって支えられていた摂関政治体制に対する在地豪族たちの抵抗は一段と激化し、やがて、前後6年にわたる平将門の乱へと続くのです