入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー62

律令国家が徐々に変質していき、藤原氏(北家ーほっけ)を中心とする摂関政治が始まると、藤原氏以外は高位要職から締め出されていきました、彼らの多くは、国司として地方へ下向する例が多くなりました

地方に下向した貴族たちは、在地の有力豪族と結び付き、自己の存在基盤を確保していきました、彼らの様子は『今昔物語』に記されている信濃守藤原陣忠(のぶただ)の「受領(ずりょうー国司のこと)は倒るる所に土を掴め」という言葉によくあらわされています

彼らの中には任期終了後も都に帰らず、赴任した土地の豪族と婚姻関係を結び、その地に土着する者も現れてきました

こうした地方政治の乱れとともに、武蔵国内の秩序や治安も悪化してゆき、貞観3年(861年)には、「凶猾党を成し、群盗山に満つる」という状況となったため、同年11月、本来ならば1国1人の検非違使を、武蔵国に限り各郡ごとに1人づつ設置します

この検非違使には、在地豪族が任命される例が多く、彼らは時によっては反国衙闘争のリーダーとなったため、国衙側ではこれを自己の体制に吸収して、掌握しようとしました、しかし、この政策は、国衙が在地豪族の武装化を承認したことになり、彼らの武装化を促す要因の一つとなりました