入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー59

律令体制の基盤となっていた班田収授法は、人口の増加による口分田の不足などから、8世紀前半には、すでに機能しなくなっていました、養老6年(722年)律令政府は100万町歩の開墾計画を立案しましたが、うまくいきませんでした

そこで、政府は翌7年には公地公民制を廃し、新たに耕地を開墾した者には3代、再開発したものには1代に限り開墾地の私有地を認めるという、いわゆる三世一身法を実施しました、しかし、この計画もうまく機能せず、天平15年(743年)には、位階に応じた限度内で墾田の私有を認めるという、墾田永年私財法を実施しています

しかし、この政策の転換は、有力貴族や大寺社、在地豪族などによる土地の開発を促しましたが、結果的には土地の私有化を助長することとなってしまいました、そして、納税免除の特権のため、耕地の拡大が政府の財政収入の増加に結び付かず、国家財政はますます苦しくなっていきました

そこで、政府は、9世紀の初頭から、各国に皇室の私有地である「勅旨田」を設定して財政の確保をはかっていきます

武蔵国には空閑地や荒廃地が多かったため、天長6年(829年)には最初の勅旨田290町が置かれ、続いて翌7年には230町、承和8年(841年)には509町が勅旨田となっています

しかし、勅旨田の開発には班田農民がかり出され、また開発の対象となった空閑地は、本来農民の共同利用地でしたので、その周辺の農民たちにとっては大変迷惑な出来事でした