入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー54

古代の農民には、兵役の義務が課せられていました、兵役は、農民一戸につき正丁3人に1人の割合で徴発することとされ、諸国の軍団の兵士と衛士や防人とにわかれましたが、このうち最も重い負担となったのは防人役でした

軍団制は、通常1000人の兵士から構成される軍団を各地に設置するという制度でした、兵士は雑徭は免除されましたが、庸・調の負担は免れず、しかも兵士として携行する武器などは、自己負担であり、さらに国司や軍団幹部の使役に酷使されたので、逃亡するものが続出しました

こうして、軍団は次第に機能しなくなり、延暦11年(792年)には、郡司の子弟から選ばれた健児(こんでい)がこれに充てられることとなりました

衛士は都に派遣され、宮門の警備やその他の雑役に従った兵士のことです、彼らは衛門府衛士府に配属され、任期は1年でしたが、実際には長期間使役されることが多かったため、逃亡者が多かったようです

更級日記』には、武蔵国出身の衛士が姫と共に故郷へ逃げ帰り、幸福に暮らしたという「竹芝寺伝説」が見られますが、これは逃亡した衛士の話をもとにしたものと思われます

防人は主として東国から派遣され、筑紫・壱岐対馬など北九州沿岸の守備にあたりました、彼らの任期は3年で、毎年3分の1が交替すると定められていましたが、実際には任期は守られていなかったようです、そして、武器と難波津(大阪府)までの食料は自弁であり、また難波津までの往復期間は含まれていなかったので、農民はその負担に苦しみました

天平勝宝7年(755年)に武蔵国部領使(ことりづかい)安曇宿禰三国(あづみのすくねみくに)により献進された20首の防人歌には、防人に赴かなければならなかった人々やその家族の思いを、今に伝えています

結局、東国農民の重い負担であった防人制は、天平2年(730年)以後改廃を繰り返し、天平宝字元年(757年)になって廃止され、防人には西海道の農民があたることになったのです