入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー52

律令政府は農民を公民として掌握し、分田を与えてそこから徴収する租税を財政の基盤としていました、当時の租税制度は大きく分けて「租・庸・調」の3種類があり、この他にも労役がありました

租は田1反について稲刈りした稲2束2把と定められていました、農民が納める租の割合は、約3%でした、徴収された租は国衙や群衙の正倉(倉庫)に納められ、地方行政費として使用されましたが、都の近くでは一部は白米として運ばれました

庸は、正丁(せいてい・21歳以上60歳以下の男子)に課せられた税で、1年に10日間上京して労役に服するものでした、しかし、実際には物納となっており、布・米・塩・綿などの郷土の産物が大蔵省に納められました

調は、庸と同様に正丁が負担するもので、各地の特産品があてられ、納める額や品目も定められていました、また調は、初期には付加税として手工業品などを納めていましたが、後には中男作物という税目に代わりました、これは17歳以上20歳以下の男子が負担するもので、国ごとに品目や賦課量が決められており、『延喜式』によると、武蔵国は麻・紙・木綿・紅花・茜などが課せられました

これらの庸や調は都へ送られましたが、その輸送は庸・調を課せられた農民の負担でした、彼らは運脚と呼ばれ、往復の食糧が自弁のため途中で亡くなる者が多かったようです、『延喜式』では武蔵国の場合、都までの日数は、上りが29日、下りが25日と定められていました