入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー30

さいたま市明花向遺跡においては、1部ですが、幅1・3~2・0m、深さ90㎝の断面V字状の溝が発見されています、出土土器から中期と後期の両方の時期が考えられますが、集落を囲む溝(環濠)は、弥生時代集落跡に見られる特徴的な遺構です、前期初頭の板付遺跡(福岡市)で初めて確認されたのですが、集落を溝で取り囲みその内側に盛り土を土手状にしていたものです

後期は、土器のうえから南関東地方では、久ヶ原式、弥生町式、前野町式の3時期に分けられていますが、久ヶ原式土器は、神奈川県に多いもので、蕨市周辺では、きわめて少ない発見にとどまっています、あれほど盛行した中期末葉の宮ノ台式ときわめて盛行する弥生町式の間をとりもつ土器としては、余りにも少ないのです、また、最後の前野町式土器も実態がよく把握されていません

弥生町式土器は、多くの遺跡が知られています、この地域に弥生文化がらん熟した時期と言ってよいでしょう、水田に適する土地の発見とその造成が、人口増加を呼んだものと考えられます

環濠集落の例をあげると、さいたま市馬場北遺跡では、環濠の中にとどまらず、外まで住居跡が広がっていて、120基の住居跡が発見されました、これらが全て同時に使われていたとは思えませんが、数十軒という規模でムラがあったことが推定されます、当然ながら規模の大きな水稲耕作というものが定着していたのでしょう