入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー20

見沼とその周辺から得られる蛋白源は、人々の生活を永続させるために欠くことのできないものでした、見沼低地から小さなおぼれ谷を挟んで奥まったところにさいたま市緑区馬場小室山(ばんばおむろやま)遺跡があります、この遺跡は、台地場の窪地を取り巻くように展開しており、縄文時代中期半ばから晩期再終末期まで連続しています

土器型式でいうと、阿玉台・勝坂式から加曾利E式を経て後期に入り、称名寺式・堀之内式・加曾利B式・曾谷式・安行Ⅰ・Ⅱ式と続き、晩期に入り、安行Ⅲa~Ⅲcを経て、晩期後半の前浦式、千網(ちあみ)式、荒海(あらみ)式と続いています

このように縄文時代後半の全型式土器が出土していることは、その地が生活の場として繰り返し、繰り返し使われたことを意味しています、このことは食糧の安定確保がまず第一の要因となっていたのでしょう、発掘調査では、ウグイの骨も発見されていますが、単に魚介類のみではなく鳥獣の骨歯も出土しています、おびただしい数の石鏃も発見されています、狩猟が盛んだったこともうなずけます

また、打製石斧も多く出土しており、根菜類の栽培といった初期の農耕は、当然ながら行われていたものと考えられます、付近・周辺の環境は照葉樹林となっていたわけで、ドングリに象徴される堅果もたやすく集められたのでしょう、落葉樹であるが、クリやトチノキの実も各地の遺跡から出土しています、渋抜きなどの加工をして粉末にし、保存食を容易に作っていたものと考えられます