入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー17

一つの遺跡に数片の土器を残して行ったということは、土器を携えて旅した小集団が、台地の先端部などで、寝たり、調理したりしながら短期間滞在し、また鳥獣を求めて次の先端に移るという形の生活であったと考えられ、そのとき、誤って打ち欠いた土器の破片を落として行ったと解されます

また、黒曜石の破片もよく見られますが、中部山岳にその産地のあることから、彼らは、原石を携え、旅の途中で石鏃を作ったものと判断されます、しかし、浅い森は本格的な狩猟生活の根拠地にならなかったのは事実でしょう、小集団が旅をしながら狩猟をする程度に適していたものと考えられます

しかし、海退後は、人々の行動範囲が拡大していきました、それは関東地方、即ち茨城県などに分布する縄文時代前期後半の土器が、いきなり、大宮台地の遺跡から出土するようになることなどでも想像できます

さいたま市緑区大門の行谷(ぎょうや)遺跡や南部領辻の総持院西遺跡、宮本の宮本遺跡などでは、浮島式土器とされる一群の東関東地方の土器が発見されていることから、浅瀬や中洲などをうまく伝わって人々は、その地まで到達したのでしょう

沖積地形である自然堤防などは、このころ成立したと考えられますが、こうした微高地は、生活の場というよりは、漁撈を行うための一時的滞在場所となったと思われます