入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 東国の古代豪族と仏教ー7

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

武蔵国で文献によって郡の設置がわかるのは高麗郡である、『続日本紀』によると、高麗郡駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野にいた高麗人1799人をもって設置っされた、それは716年(霊亀2年)のことであった」

高麗郡設置の状況を物語る考古学的資料として女影廃寺がある、そこから1枚の瓦が出土している、周縁に面違銘歯文をもつ複弁八葉蓮華文軒丸瓦である、この瓦は新治廃寺の瓦とよく似ている、実物は行方不明となっているが、幸いなことに拓本が残っていた」

「女影廃寺の拓本と新治廃寺出土の瓦の拓本を何枚も比較してみると、そのうちの1枚と同じ笵でつくられていることが判明した、女影廃寺と同笵関係にある瓦は、新治廃寺の創建瓦であることから、女影廃寺の瓦も8世紀初頭に比定でき、716年(霊亀2年)の高麗郡の設置直後に女影廃寺の造営が始まったことを物語っている」

「686年(天武14年)、次のような詔が出された」

『諸国家ごとに仏舎を作りて、すなわち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ』

「つまり、諸国では家ごとに仏舎を造り、仏像と経を置いて礼拝供養せよ、という意味である、この詔についてはいくつかの解釈がる、特に問題となるのが、『諸国家』をめぐっての解釈で、これについては次のような解釈がある、① 公民全般の家に仏舎を造るという理想を示した、② 貴族や豪族に対し、寺の建立を奨励した、③ 国衙に付属する寺院の造営、或いは国衙における仏像・経典の安置を命じた、④ 諸国の官衙施設に付属する寺院の造営を命じた、という説である」

「①については考古学では証明できないが、②に関しては既にこの段階に有力豪族は寺院の造営を開始しているので、詔を出す意味は薄れる、③の説も有力であるが、最近の考古学の成果によると、郡衙の近くに必ずといってよいほど寺院跡が存在することが確認されている、これらは一般に郡衙併設寺院とか郡寺と呼ばれる寺院である、そうすると、詔の意味は④の諸国の官衙施設に付属する寺院の造営を命じた、という説が最も有力となり、この説を支持したい」