入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 古代武蔵国の駅路ー3

続いて森田氏の説は「豊島駅は北区王子か千代田区神田とし、豊島駅から下総国府へ向かう駅道は隅田川ないし江戸川=太日川を渡ったはずであり、隅田川左岸の下総側と江戸川の渡渉地点および両地点の中間に井上・浮島・河曲3駅があったであろう、承和二年(835年)六月二十九日官符に太日川と隅田川の渡渉地に船4艘を置いたことがみえるが、この渡渉地を駅家と関連づけることができよう」

「江戸川の渡渉地は『更級日記』に『まつさとのわたし』とみえ、千葉県松戸市のあたりに比定される、すぐ南方は市川市国府台であるから、下総国府に付設された外津の性格を有していたのであろう」

「井上→浮島→河曲という駅順を武蔵方面からの配列とみるか、逆に下総方面から武蔵方面への順序となっているとみるかは、重大な問題であるが、『延喜式』にみえる駅馬数が、井上駅が10疋なのに対し浮島・河曲両駅は5疋であることに注目し、分岐点の駅は駅馬が多くなることを根拠に 、井上駅東海道常陸方面と上総方面へ分岐する地点に置くのを妥当とし、千葉県側から井上→浮島→河曲の順に並んでいたと推測している」

「井上・浮島・河曲3駅は下総国府以西になるから、葛飾郡に所在したことになり、他の2駅=茜津・於賦両駅は千葉郡ないし相馬郡にあったことになる、茜津を八千代市高津にあてる説があるが、その可能性なしとしない」

東海道下総国府に近接する井上駅から1つは相馬郡於賦駅を経て常陸国府へ向かい、他は千葉郡茜津駅を経由して市原市上総国府へ向かったのである、井上駅は、国府台に近い松戸の江戸川渡渉地に位置し、そこから2方向に駅路が分岐する比較的規模大なる駅とみるのが妥当である」

井上駅を松戸に比定すると、その西方に浮島→河曲の順で並ぶことになり、河曲駅は隅田川の下総側の河岸に位置していたと考えられるが、具体的な比定地をあてるのは困難である、河曲はカハハ→コオワとなるので、現江戸川区小岩のあたりとするのも1案であるが、隅田川畔の渡渉地とすると、小岩では不適切である、河曲なる地名はいわゆる自然地形名であり、河川の屈曲地にしばしばみられる地名であるから、当時の隅田川の屈曲地にして渡渉に使われていたところと考えられる」

「浮島駅は隅田川と太日川の間に所在したことになるが、延喜兵部式諸国牧条に下総国浮島牛牧なる牧名がみえるので、この牧と関連していたとすれば、江東デルタ地帯の島状の土地に因む駅名で、牛牧が近くに存したのであろう、柵を設ける必要がないので、低湿地の島を牧に利用することが多かったらしい」

「駅が牧の近隣にあったとすれば、牧草の供給その他の点において便宜があったはずである、この地域には大島・向島・寺島その他島のつく地名が散見するが、低湿地の島状の土地に由来するといってよく、浮島をそれらに近似したものと解すことができよう」

「仮に、河曲駅を足立区千住のあたりに比定すると、井上駅=松戸との間が直線で9km程となり、この間に浮島駅をおくと余りに駅間距離が短くなるが、低湿地で高めなところを縫っていくとなると屈曲が激しくなり、実際の駅間距離はかなりなものになったのではあるまいか、浮島・河曲両駅の前後の駅は駅馬10疋なのに対し、両駅のみ半分の5疋であるところをみると、河曲→浮島→井上の駅間距離は他に比べ短かったとみてよいのである」

「江東デルタ地帯に駅路を想定することについて、そこが氾濫地帯であって不当ではないかと批判があるが、既に8世紀の下総国戸籍に江東地帯に位置していたことが確実な葛飾郡大嶋郷の分があり、11世紀初めのころ上総前司菅原孝標の一行は松戸のあたりで太日川を渡っているので、批判にはあたらない」としています