入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 日本のポンペイ黒井峯・西組遺跡-11

古墳時代の農業に対する今までの考えは、近年各地で発見される水田跡から稲による単作論の説明が多いようですが、黒井峯・西組遺跡の農業技術を考え合わせると、水田や畠作も同時におこなわれた複合形態であり、特にこの2つの遺跡は畠作に力点が置かれているといってよいでしょう

畠作自体は地力も衰えやすく、しかも作物の連作障害という同じ品種を繰り返して栽培ができないという制約がありますが、異なる作物を交互に変えていく輪作技術や後述する施肥で欠点を補ったと考えられます

これに比べて、水田耕作の場合、制約がなく毎年同じ場所で続けられ、しかも他の穀物に比べて多収量であるため、多くの地域で受け入れられ発展していくこと自体に異論はありませんが、1年のうち春から秋までの半年を稲作だけに、限定すると冷・干害や病害虫などで、不作となった場合、死活問題まで発展してしまう可能性があります

水田と畠作は地域ごとに、その立地条件などで比重は異なりますが、古墳時代農業は家畜も含め、水田と畠作を同時に行っていたと考えるのが自然と思えます

家畜小屋の認定については先にふれましたが、脂肪酸分析の結果から牛の存在が証明され、多くの家畜を飼っていたことが明らかとなっています

現在までの動物の種類は牛と馬の2種と考えられていますが、どのように飼われていたか推定してみます、家畜小屋をもつ単位は2つの遺跡に1つずつ存在し、どの単位でも飼っているのではありません

建物自体は切妻屋根と推定され、壁は1部もしくは、まったくないものもあります、内部は通路と家畜を入れる小部屋の区画が3~5に仕切られ、土間のままか板や丸材を敷きならべた構造となっています、建物の軒下には溝を掘ったものと周辺の大きな凹地を利用した排泄溜めがあります

この排泄溜めは、ただ単に衛生的にするため集めた溝とは考えられません、むしろ毎日排泄される家畜の糞は、月にすれば相当な量となることが予想され堆肥として再利用がなされた可能性があります

日本に稲作が伝来していく中で、土は常に肥沃のままではありません、繰り返し続けられる栽培によって次第に地力がやせ衰えていくのは目に見えています、この地力を回復するためには施肥を行わないと、畠や水田を放棄して自然の回復を待たなければなりません

施肥の技術に関しては弥生時代以降、草を利用した緑肥で、平安時代になって草木を焼いた灰を利用した方法といわれ、これらの肥料は生産性が低いものです、生産性が高くなるのは人糞尿の利用で中世以降となっています

発掘調査された各種の畠を観察すると、自然の回復を待つため放棄されたものや土起こしをしただけの畠などがありますが、家近くの畠の断面を分析すると、繰り返し継続して耕作されており、家畜の頭数を考えても施肥を行っていたと充分に考えられます