入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 日本のポンペイ黒井峯・西組遺跡ー10

このような事例は民俗学の研究で、北太平洋の海岸部や島に生活していた民族の大半がよく似ていることから想定されました、これらの民俗の家は冬の雪や凍結、厳寒を防ぐため竪穴式住居を作り、丸太作りの屋根上には土を厚くかぶせていることが特徴となっています、この家は冬のみの建物で、春になって雪解け水が竪穴内に入り込むため、ある時期になると別の小高い所に作られた小屋に家族全員がそろって移動していることが確認されています

たしかに黒井峯・西組遺跡から発見される竪穴は深いことと、大型のカマドや屋根一面に覆われた土の密閉度から、冬は暖かく快適な生活が望めるが、梅雨時のじめじめした状態や夏の暑さで窓もない内部は想像以上に蒸し暑く、住むための快適空間とは思われない、こうしてみると季節的棲み分けは合理的な解釈となりますが、現在までの調査件数と遺物の出土状況からの判断ですので、即断はできないと思われます

軽石下から発見される古代の農地は台地の平坦部やその斜面にまで畠が作られ、水田は河川沿いの低地や水場の下流に細々とみられる程度です、このことは水田耕作も畠作も同時に行われ、しかも畑作の比重が高いことを示しています

畠は形態から傾斜に沿った縦畝と畝をたてず土の掘り返しだけを行った畠、碁盤目状に区画した畠の3種類があります、この中で縦畝の畠は、畝幅が80cmと40cmの2種類にさらに細分されます、畠の土は6世紀前半に爆発した際堆積した火山灰(厚さ10~20cm)をそのまま利用し砂粒質の土壌です、畠の多くは作物の収穫後放置された状態で、住居周辺に見られる碁盤目状の畠が畝たてされた直後で柔らかい状態となっています

碁盤目状の畠についての解釈は現在までのところ2つあり、1つは住居周辺にあることで日常生活に必要な蔬菜類を栽培した家庭菜園的な畠とみるものと、2つめは稲苗を育てるための畠とし陸苗代(おかなわしろ・苗代は通常水田に作るものと考えがちであるが、稲の苗を強くするため畠でも行われた)とする見方があります

畠で栽培された植物や植えた間隔などの痕跡は確認できませんでしたが、建物内より小豆・米・麻・瓢箪・鳩麦粒などが出ており、土壌中のプランクトンオパール分析(植物が成長する際体内に作られた植物ガラスをもとに種類を決定する)での結果、麦なども発見されています、以上のような品質をさまざまな形態の畠で育て、稲や麦のように栽培期間や栽培方法が異なることを考えますと多品種の栽培技術をもった複合形態の農業であったろうと思われます