入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 日本のポンペイ黒井峯・西組遺跡ー9

このような調査結果をみると、共通点として竪穴式住居1棟に隣接して柴垣に囲まれた家屋群が現在でいう1世帯を成していたことが判ります、平地の家屋群の内外には小区画に区切られた畠・高床式建物・円形の平地式建物・家畜小屋・祭祀跡を不規則に配置し、近代の農家にみられた母屋・納屋・家畜小屋・屋敷神・倉庫そして畠のある景観とよく似ています

細部についてみると黒井峰遺跡のⅠ・Ⅵ群のように家畜小屋が数多くあり、間取りすべてに家畜がいたと仮定すれば10~12頭飼われていたことになります、毎日の飼育のための餌や排泄物処理を考えれば大変な作業と云えます

また、家畜など飼われず、Ⅶ群のように円形の建物で酒(?)などの作業を主体としたものも同時に存在しています、黒井峯の村全体は約半分近くが調査されていますけれど、各単位は農業を基盤としていてもそれぞれ個性的な役割を担っていたことがうかがわれます

これとは対象的に西組遺跡のあり方は黒井峯遺跡と異なり、家畜小屋や円形の作業小屋を併せてもっていたことや周辺の状況からも数単位しか考えられず、役割を分化するまでにいたっていないようです

大雑把な家族数は単位に大小の差はありますが、1単位を見渡すと住まいと認められる建物では竪穴住居1棟と平地式住居4棟前後あり、最小の家族として夫婦とその子供1人の計3名を想定し、住まいが5ヵ所に分散しても15人ということになります、この当時であれば、子供は労働力の一端を担わされていると考えられるので実数は更に増やしてみる必要があるでしょう

ただ、ここで1つの疑問点が多くの研究者から指摘され、調査に携った者がこの疑問を解決しようとすると、住まいに関する別な問題点がいくつも出て悪循環となってしまいます

それは平地式住居から数多くの土器を中心とした遺物類が発見されるが、一方の縄文時代以来伝統的に続いている竪穴式住居にはほとんどなく、建物構造の住みやすさを考えると同時に住んでいたのではなく、季節によって住み分けがあった可能性が考えられます

このことは今まで集落を構成する単位は竪穴式住居だけで考えらたものが、見方をまったく変えなければならないという結果となってしまうのです