入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 日本のポンペイ黒井峯・西組遺跡ー4

古墳時代の建物の種類には、地面に大きな穴を掘った半地下式の竪穴式住居と呼ばれているものと、大きな穴は掘らず地表面に直接建ててしまう平地式建物(住居や納屋なども含む)、高床式建物の3種類があります、従来の研究では、畿内を中心とした西日本は竪穴式住居から平地式建物・高床式建物へすでに移り変っており、東日本では、古墳から発見される家形埴輪や豪族の住まいである居館の遺構から高床式に変ってきているものの庶民は依然として数多く発掘される竪穴式住居に住んでいたと考えられていました

黒井峯・西組遺跡の調査では、竪穴式住居1棟に平地式建物・高床式建物が10棟前後付属し、これら3種類の建物が混ざり合って1単位を構成していることが突きとめられました、この単位はいくつか集まって1つの村を成しているのが実態でした

竪穴式住居というと静岡県の登呂遺跡の復元された家をすぐ思い浮かべますが、寒さや雪・風など気候の異なる土地で家の造りが違うように、黒井峯や西組遺跡では特色ある構造をしています、大きな特色に穴の深さが大変深く、約150cmを測り、内に入るとちょうど人の頭や顔が出る深さです、この深くした理由には冬の北風、特に群馬県の名物である”からっ風”という乾燥した強風が吹き荒れ、体の芯から冷え冷えする寒さを防ぐ効果をもったものと推定されます

屋根を支える柱は、どの竪穴を観察しても径15cm前後の太さで、か細い感じを受けますが、屋根自体が低く作られていることのためのようです、黒井峯遺跡の1987年3月の調査で、竪穴内に軽石の重みでそのまま落ち込んだ土屋根が確認され、、この屋根を元の位置に復原すると屋根の高さは地面から約2m以内であったことが判明しました

屋根の型式は、東西に棟をもった寄棟で、地面まで葺きおろされたものです、構造は垂木や横木を結びつけた骨組みの上に茅などを薄く敷き、この上に3~10cmほどの厚みで土を乗せ、さらに土おさえとして茅で葺き直しています、こうした構造は断面で見るとサンドイッチの状態に似て、寒さを防ぐ効果は大変すぐれていると考えられます、ただ、年間を通して快適な住まいではなく雨などの湿気に弱い欠点を同時にもっています

竪穴内部へは南に置かれた梯子で出入りし、煮炊きや暖を取るためのカマドが東の壁に作られています、カマドは付近で出る白色の粘土を用い、屋根から突き出た煙突を含めれば高さ2mもある大型の施設です、竪穴の壁は茅などの植物を編んだ網代で覆われ、土中の湿気を防いでいます

深く掘り込まれた竪穴の土は量からすると大変なもので、この土はいったいどこへどのように処理されたのか大きな疑問が湧いてきますが、黒井峯・西組の竪穴調査から多くのものは屋根にのせる土とともに穴の周囲に薄く(30cm内外)盛り上げた周堤と呼ばれている土手となって利用されていたことが判明しています

この周堤は表面が道のように踏み固められ、雨水の浸入を防ぐ効果をもっています、ただ、1例ではありますが、まったく周堤を作らず、竪穴の土をどこかへ持ち去ったものもあります、この場合、穴の周囲に浅い溝を掘ることによって周堤の役目をもたせたようです、このように竪穴を掘った土は主に周堤や土屋根に用いられ、多目的な土の再利用がなされているのです