入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 日本のポンペイ黒井峯・西組遺跡-3

榛名山は長年の火山学の研究成果から6世紀に2度にわたって大爆発を起こし、山麓といわず群馬県一帯に火山灰や軽石をまき散らし災害をあたえたことが判っています、この2度の爆発地点は現在の二ッ岳(1343m)の位置する場所で起こり、周辺に堆積している火山灰を二ッ岳降下火山灰(略してFA)、軽石を二ッ岳降下軽石(FP)呼んで区別しています

最初の爆発は6世紀前半ごろと考えられ、軽石をまじえた火砕流も起こし、榛名山東、南麓において被害が著しく、山麓部を離れた地域では、火山灰(FA)が群馬県および埼玉県北部まで堆積していることが知られています、災害の季節は初夏と判断されています

2度目の爆発も山麓部で火砕流を起こし、降下軽石(FP)は火口を中心に北東方向に広がり、尾瀬沼福島県宮城県まで達していることが火山学によって確認されています、時期は6世紀中ごろか、あるいは後半と推定され、季節は田起こしのころの初夏と思われます

黒井峯・西組遺跡はこの2度目の爆発によって軽石で埋もれた遺跡で、その厚さは約2mも堆積しています、軽石層は粒の大きさや色から9層に分かれ、最初は1cmの大きさで降っていたものがしだいに10~20cmに変わり、激しく降下していったことが理解されます、発掘調査によってこの軽石層をさまざまな角度から観察したところ、次のような特色が判りました

まず、軽石自体は、火口から噴出される時、火の玉のように高い温度をもっていましたが、遺跡のところ付近に届くころには、発火を誘うほどの温度はなかったらしい、ただし、発火力はないとはいえ、相当の熱さはもっていたと考えられます、この温度問題は、2mも堆積した軽石中に当時の建物の壁や屋根などが封じられているにもかかわらず、材質が燃えずに自然に朽ちた植物繊維となっていたことから証明されます、ただし、数多く存在する建物群にも例外があり、数棟だけ火山活動とは無関係に火災を起こしている建物(住居)があります

この建物は、厚い軽石層の上で、建物壁やその柱を確認することができ、軽石層の中では壁に接した軽石が赤く焼け焦げ、壁そのものは炭となって立ったまま発見されています、これらの事実から軽石がそそぐ中、建物が何らかの原因で燃え始め、拡がっていく過程でも軽石が降り続いていたことを意味しています

ここで見方を変えて、軽石の堆積2mは、いったいどの位の時間がかかったのかを推定します、今迄は短くて1ヵ月、長くて数ヶ月かかったと考えられていましたが、焼けた建物の事実をまとめると、もっと短い時間(数時間)と考えられます、黒井峯の各住居の内には棚の上に乗せられた土器や穀物類、土間に据え置かられたままの甕など、置き去りのままで、あわてて逃げた様子が見られ軽石が短時間で降ったことが充分理解されます

軽石の落下してくる時の衝撃力は、屋根を突き破って入るものや地面に食い込むものもありますが、これらは数の少ない比較的大粒(5cm以上)の軽石で、大半の軽石は雹(ひょう)がパラパラと降り落ちる状況に似たものと想定されています、この落ち方は建物を破壊せず、屋根から転がり落ち、雪が積もるように軒下にうず高く堆積していることが観察され、この堆積を利用して屋根の形が切妻か寄棟であるかはすぐに分析することが可能です

このようにして軽石のもつ特性を利用して調査が進められていきますが、この遺跡でのもっとも重要なことは古代の人々が歩いたであろう地表面が、当時のままの状態で残されていることに大きな意義があります、この地表面にはさまざまな痕跡があり、大小のくぼみや、地境いと考えられる土盛り、古代人が歩いて堅く締まった道や庭などあらゆることが大地に刻まれています

これらの痕跡は当時の人々が日々くり返し付けたもので当時の生活の実態を示し、堅く締まった道をたどることによって隣り同士の関係や畠・水田・水場などの生活のすべてを知る手がかりを与えてくれます