入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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伊興遺跡補習ー9

◎伊興遺跡の地理的環境(ⅱ)

開拓初期の様相を想定する上での貴重な例として、舎人遺跡や蜻蛉遺跡の方形周溝墓が挙げられています、数的には北区豊島馬場遺跡の方形周溝墓群にははるかに及ばないものの、両遺構とも前期の構築で、また「群」としての構成であり、集落の形成もほぼ前期であるという点を考えれば、これらの遺跡は形成と同時に本格的居住がなされたことが推測されます

さらに、各遺構間の類似性も重要な意味を持っているようです、毛長川左岸の西地総田遺跡では、前期の完形に近い土器を多数含む”特殊遺構”が確認されています、S字甕・坩・器台などが集中して出土する様相は、伊興遺跡で祭祀遺構として報告された出土状況と著しい類似性を示しており、祭式の類似とともに、集団の類似性をも暗示しています

S字甕に代表される外来系土器の出土例から、近年の東海系集団の移住説との関わりも問題となりますが、これら集落跡の形成には、川口市高稲荷古墳などを造営した大宮丘陵の勢力が関与していたと推定される点も重要です、高稲荷古墳はすでに消滅してその痕跡を残していませんが、4世紀後半とも5世紀の築造ともされる古墳であり、埼玉県南部で最大の前方後円墳です

すなわち、毛長川流域を臨む大宮丘陵南縁に存在したことから、これら開拓集団を束ねた被葬者であることも推定されています

毛長川は、現在でこそ小河川であるものの、かつては利根川水系の一部であり、大河川であったことが指摘されています、しかし、4500~1500年前頃を境に、利根川水系は大宮丘陵東側に大きく流路を変えたため、毛長川流域の沼沢地化が始まります、沼沢地化の始まりは約2000年前以降とされています

それ以前の約6000年前の縄文海進時には、毛長川流域は荒川低地・中川低地とともに海面下にあったと思われます、以後、海退に転じてから、周辺地域は内湾~汽水域~干潟へと変化をたどったことが推定され、この過程の中で、河川の作用も強く受けて伊興遺跡をのせる自然堤防の原形が次第につくられたのでしょう

黒褐色土(Ⅳ層)下の黄褐色土・黄褐色シルトおよび青灰色シルト(Ⅴ~Ⅵ層)の堆積を検討すると、この当時は谷と自然堤防の入り組んだ複雑な様相を呈していたと思われます、伊興遺跡では現在の狭間地区をのせる自然堤防が最も大きく、毛長川にほぼ平行して存在したことは理解されていましたが、谷を挟んで、聖堂・東伊興小学校周辺・五庵地区などの小自然堤防の存在したことも、下水道関連の調査の結果明らかになっています

伊興遺跡では本格的居住が行われたのは、これらの自然堤防上を積極的に利用した古墳時代初期以降とされています、それ以前は無人に近い原野が広がっていたようです