入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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伊興遺跡補習ー1

◎伊興遺跡古環境(縄文時代

この遺跡周辺の古代の土壌調査では草本花粉が卓越することから、遺跡近辺は開けた場所であり、森林植生が成立することはなかったと思われます、草本植物が繁茂する湿地のような場所となっていたことが推定されます

本遺跡では古墳時代、奈良・平安時代、中世を通じて多数の木製品の遺物が出土していますが、これらの木製品には遺跡近辺で入手できたものもあったと考えられますが、搬入されたものも多く含まれていることが植生変遷から示唆されます

毛長川の旧流路は、縄文海進海退期に堆積物を侵食しています、この海退期の堆積物(Ⅷ・Ⅶ層)は、内湾から汽水域に変化する時期に堆積したシルト混じり砂層、泥質干潟の時期に堆積したシルト・粘土層からなり、両層上面の標高はそれぞれ1.2m、1.75mです、このことは本地域における縄文海進海退の変化を捉える上で重要です

この微高地の形成期を傍証する資料として、微高地高位面の縁辺にあたるC-d区8G出土の縄文土器(後期堀之内式)があります、この縄文土器は、標高が1.63mで、青灰色シルト~粗砂のラミナがあり流水による作用で堆積したⅥ層の中から出土しています、この縄文土器は摩滅がない大型破片で、はるか遠方からではなくせいぜい隣接する微高地からの流れ込みと考えられます

また、この縄文土器の出土地点から西へ約12mの同じくC-d区5・6Gの標高1.0~1.3mの地点からは、長さ6m、直径0.4mほどの流木が出土し、放射性炭素年代測定により3540年前の年代値が得られています、さらに、B-d-8区25Gからも流木が出土し、同じく放射性炭素年代測定により3220年前の年代値が得られています

問題はこれら縄文土器と流木がいつ埋没したのかでありますが、局地花粉化石群集帯からみるとP-Ⅱ帯の下部付近であり、縄文時代中期から古墳時代前期までの間の時期に再堆積したと考えられます

つまり、縄文時代後期の地形を直接に示すものとは残念ながら言えないようです、しかし、この縄文土器は後世になって遠方から運ばれたとは考えがたく、微高地が干潟となっていた時期に縄文人がやって来た際に残したものである可能性が高いようです

さらに毛長川を2~3kmほど下った微高地高位面上に立地する大鷲神社境内遺跡(旧称:花畑遺跡)からも同じく縄文時代後期(堀之内式)の縄文土器が発見されています、この土器は標高約0.1~0.4mの褐色粗砂層中から発見されたもので、ほぼ完全に復元ができるほどまとまった個体です、伊興遺跡のC-d区8G出土の縄文土器と同じ後期(堀之内式)であり、ここも同様にこの近辺の一部が陸化していたものと思われます

しかも、この土器の包含層の下には、マガキ・ハマグリなどを含む青灰細砂層があり、有楽町貝化石層に対比されています、正式な発掘調査ではないため、出土地点を正確に特定することはできませんが、有楽町貝化石層のすぐ上から縄文土器が発見されたことから推測すると、再堆積でなく縄文時代後期からの位置をそのまま保っていた可能性が高いと言えます

その後、伊興遺跡谷下地区の最高点付近(標高2~3m)からは、縄文時代後期(安行Ⅲa式)の土器が23点出土しています、しかし、縄文時代に属する遺構の発見はいまだなく、陸化していたものの本格的居住には至らなかったものと考えられます

旧毛長川の河川作用によりかなりの改変を受けているため、細部の微地形は明らかではありませんが、縄文時代後期頃に伊興遺跡付近が干潟となり、これを縫うようにクリーク(小河川)が発達したと思われます