入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈23〉

前方後円墳から円墳や帆立貝式古墳に変わることは、京都大学の小野山先生の畿内王権による地方豪族の造墓に対する規制によるものだとする有名な学説がありまして、野毛大塚古墳などもその代表的古墳ということがいえるかと思います」

「小野山さんにいわせると、5世紀初頭は、誉田御廟山古墳応神天皇陵古墳)などが現れて、大王がぐんと力をつけてくる時期と考えられます、そういう時、一時的に各地の有力な豪族が前方後円墳がつくれなくなって、帆立貝式古墳をつくるようになるというのです」

「しかし、小野山さんの挙げている例は大体一過性です、武蔵のようにその後も円墳が続くのではなく、一代だけは帆立貝式古墳で我慢するけれども、その次になるとまた前方後円墳が復活する場合が多いのです」

「武蔵の場合も、野毛大塚古墳や雷電山古墳が出てくる契機としては大和政権の介入を考えざるを得ないけれども、その後規模を縮小した円墳が続き、せっかく梃子入れした武蔵政権が解体してしまうように見えるのも大和政権の規制によるのだろうか、ということがあります」

「ここで考えられるのは上野の圧力です、上野の勢力としては武蔵に強力な地域政権が出てくるのは困る、しかも東日本の太田天神山古墳が野毛大塚古墳ができたちょっと後に出てくるわけです、だから、大和政権が敷いたシフトは余り効果がなかった、ということもいえると思います、上野はますます強大化しているということであります」