入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈22〉

「さらに、その辺の消息を考える上で考慮したいのは、野毛大塚古墳あるいは雷電山古墳という輝かしい帆立貝式古墳が出現するのですが、後が続かない点です、前期の場合は有力な前方後円墳が歴代つくられるのですが、野毛地域では、天慶塚古墳、八幡塚古墳、御岳山古墳など、今度は30mから40mで、規模からすると野毛大塚古墳と半減する円墳が首長墓として5世紀後半代にはつくり継がれています」

「では、北武蔵はどうかというと、これもそうです、雷電山古墳以後めぼしいものがありません、7期に諏訪山33号墳、これも円墳で、短甲を出しています、南武蔵でも、御岳山古墳からは短甲を出しています、そういう点でも、南北共通の運命をたどっていると思います」

「南武蔵でいいますと、上流の砧中学校古墳群では37mの円墳の砧中学校4号墳が現れ、引き続き中規模の円墳がつくられます、さらに上流の狛江古墳群でも、中期になると30mから40m規模のかなり有力な円墳が連続的につくられたらしいということが最近はっきりしてきたわけです」

「狛江古墳群では、5世紀末・6世紀初頭にあらわれる狛江亀塚古墳が有名で、あれは大陸色の豊かなものが突如あらわれたと考えられていたのですが、最近の調査で、それに先立って、おそらく何世代かにわたって有力な円墳がつくられている、ということがわかってきました」

鶴見川でいっても、観音松古墳以後あるいは稲荷前1号墳以後は、それぞれ中規模の円墳の系列が幾つかありそうです、その中には朝光寺原1号墳のように37mで、甲冑を出して、かなりたくさん鉄製の武器を持つ、そういう中規模な円墳があらわれています」

「6期とか7期では、それまで南武蔵に覇を唱える大古墳をつくっていた田園調布・野毛の優位性は跡形もないといわざるを得ません、横並びに中規模の円墳がそれぞれの小地域でつくられているということであります」

「おそらく同じようなことが比企地方にもあるとすれば、野毛大塚古墳、雷電山古墳を最後にして、武蔵連合という地域政権が解体して、小規模な円墳をばらばらに各地でつくる時期を5世紀中葉から後半に迎えているのではないかと思われます」