入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈21〉

「関東の状況からいうと、4期には上野東部で太田市別所茶臼山古墳(165m)とか、上野西部では高崎市倉賀野浅間山古墳(172m)とか、そういう超大型の前方後円墳がつくられます、さらに、5期には太田天神山古墳(210m)という東日本最大の前方後円墳がつくられます、そういう動向の中で、武蔵に強力な武力を持った帆立貝式古墳の首長墓が出てくる、といった関係がみられるわけです」

「一方、先程述べました東京湾を隔てた上総の地域においても、市原の姉ヶ崎古墳群あるいは富津の内裏塚古墳群等々に、それぞれの系列に若干空白な時期があるわけですが、4世紀から5世紀にかけて連続的に東京湾岸のどこかの地域で100mを越える大型後円墳がつくられているという状況があります」

「ですから、そういう点でいうと、東の総も北の上野もともに大型前方後円墳が連続的につくられ、さらにだんだん規模が大きくなっていくという状況の中で、武蔵だけがそれまでの前方後円墳の系列から帆立貝式古墳に変わります、しかも、それは大和王権の大きなバックアップを受けた勢力になっているわけです」

「そして、このような観点でみると東松山雷電山古墳は上野にシフト、南の野毛大塚古墳は東京湾を隔てた総の勢力にシフトしていると考えられます、大和王権の関東に対する戦略に絡めていえば、そういう状況がうかがわれるというふうに思います」

「それでは、当初の私(甘粕)の説の目玉であった南武蔵に対する上野の影響は考えられなくなったかどうかという点があります」

「私は、野毛大塚古墳の2号主体部石棺の石製摸造品のセットは上野と密接な関係があるのではないかと思います、石製模造品、特に盤・槽・杵・小型壺など、食物を供献する儀礼的な器物をリアルに摸しています」

「これは大和にもありますが、上野で特殊に発達するもののようです、上野の白石稲荷山古墳のものとか、高崎の剣崎天神山古墳の厨膳具、これらは非常によくできています、上野の厨膳具と比べると野毛大塚古墳のものはやや雑だなという感じがします、そういう点ではモデルが上野にあるという印象は依然としてぬぐえません」