入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈20〉

「野毛大塚古墳では最新式の甲冑と東日本でも最大の攻撃用兵器、刀剣、鉄鏃が出土しています、1号主体の粘土槨の西側に添えて埋葬された施設(第3主体)があり、大量の武器がおさまっているのがわかります、刀剣類と鉄鏃の束があって、この間にわずかに空間があるという感じですが、人間が埋葬されているにしても、狭いところに武器の番人のような形で入っているように思われます」

「そして、1号主体にある御主人の中央棺からは鏡や装身具とともに、甲冑や多数の刀剣が添えられています、両者をセットにした、武装総量の豊富なことは全く驚くべき内容ということができます」

「上野との関係でいっても、甲冑の埋葬で有名な太田鶴山古墳では複数の甲冑が出ておりますが、鉄製の武器の保有量という点からいうと、100mクラスの前方後円墳ですが、帆立貝式古墳の野毛大塚古墳には大きく水をあけられているわけです」

「これは、田園調布、野毛を本拠にする南武蔵の首長が5世紀前半に大和政権とより強い結びつきをもつようになり、大量の最新鋭の武器の供給を受けて、それまでの前方後円墳をつくるという形で型式的には大和政権との間の同盟的な関係から、従属的な関係にはなるけれども、一方ではより親密な関係を持つようになったと考えられます」

「そして、大和王権にとっても関東での重要な拠点を形成する性格の首長に様変わりしてきたといえ、北武蔵の場合にも同様なことが起こっているわけです」

「北武蔵と南武蔵にそれぞれ核になる勢力があって、2極構造的に大型帆立貝式古墳をつくったというふうに考えることもできるし、両者を1つの系列と考えて、埴輪のあり方などから見て、雷電山古墳の方が若干古いのではないかという感じもするわけで、雷電山古墳、野毛古墳という系列と見て、武蔵の5世紀前半の最高首長の墓が、あるときには北武蔵、あるときには南武蔵という形で、移動していたとみるのも1つの考え方であると思います」