2010-06-16 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈18〉 「次に武蔵に大きな変化があらわれるのは5世紀前半、田園調布古墳群でいえば、宝莱山古墳、亀甲山古墳、或いは最近、新居里古墳(西岡31・32号古墳)という2つの円墳と考えられていたものが前期後半の1つの前方後円墳である可能性が出てきておりますが、田園調布で大型前方後円墳がつくられた時代が終わって、少し上流に移って、帆立貝式の大型古墳、野毛大塚古墳があらわれます」 「25年前に論文を書いたときは、野毛大塚古墳は円墳だというふうに考えられていました、当時は、明治時代に発掘された現在2号主体といわれている箱形石棺の出土品が中心的な埋葬施設と考えていましたので、『武蔵国造論』の決め手になる古墳ですが、前提になる認識が違っていたわけです」 「最近の調査で1号主体といわれる中心的な埋葬施設が中心の深いところにあることがわかりました、それは前に考えられていた2号主体の年代より一時代古い、5世紀初頭ないし前半のものであるということがわかりました」 「毛野の影響のバロメーターと考えられていた石製模造品もあるわけですが、野毛大塚古墳の1号主体の場合は、中心は豊富な鉄製の武器と武具、中国製の鏡を持っているとか、この時期、畿内中枢と密接な結びつきを示す内容になってきたわけで、そういう点では私の論文の前提が大きく変わってきたわけであります」