入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈17〉

「先ほど、お話した北武蔵との関係からいっても、現在の荒川、元荒川、利根川、そういう川筋で芝から水路で足立郡入間郡へ、さらに野本将軍塚古墳のある東松山地区などには簡単に往復していただろう、ということは容易に考えられるわけです、そういう意味で、ここに超大型の前方後円墳がつくられていることは納得できると思います」

「そこで、これは私の1つの仮説ですが、武蔵地方においては、古墳時代の初めには東海系の前方後方墳優位の北武蔵、それよりも規模でははるかにまさる前方後円墳が主流の南武蔵という2つのブロックが対峙している状況がありました、それが前期の半ばに両者とも前方後円墳が主流になる時代が来るのですが、この時点で南北武蔵の首長が同族関係を結んで連合し、後の大国造国の原型ができたと考えたいのです」

「その段階は大和政権の側からいえば、南武蔵の勢力を利用して北関東における東海勢力を排除する意味があったと考えられるのです、在地の方で考えれば、南北武蔵の連合は、上野からのかなり攻撃的な地域政権だったと思うのですが、脅威から北武蔵の安全を保障する役割を果たしたと思われます」

「『国造本紀』をそのまま鵜呑みにするのはもちろん間違いですし、実際の古墳のあり方も、確かに南武蔵と北武蔵というふうに離れているわけですが、それが連合を組んでいたのか、それとも別々に歩んでいたのか、水掛け論になってしまうようなことですが、その辺の問題は避けて通ることができないわけです、これから活発に議論していくことが必要だと思います」