入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈16〉

「どういうふうに復元するか難しい点もありますが、年代が確実な鶴見川水系の加瀬白山古墳とよく似ているのではないかと思います、兄弟分のような平面形をしております、平面形の割合を数値(後円部径:前方部長:くびれ部幅:前方部幅)であらわしますと、芝丸山古墳が8:6:4:6、加瀬白山古墳も一部変形されていますが、復元してみると8:8:4:6です」

「大和政権から三角縁神獣鏡の配布を受けていた白山古墳の首長は前方後円墳の造営企画においても、大和政権から直接伝授されたと思われます、おそらくそれと前後して芝丸山古墳の首長にも共通のモデルが提供されたのではないでしょうか」

「上流で新しい稲荷前1号墳は、前方部が少し広くなっていまして8:6:4:7です、これは白山古墳をモデルにしてその2分の1の企画を採用したものですが、前方部の幅がしだいに拡大するという時代の流れを反映して前方部の幅は一単位大きくしたのではと考えられます」

「鏡や碧玉製宝器など大和政権から賜与されたと思われる副葬品を持たない稲荷前の首長は前方後円墳の企画についても大和政権から直接伝授されるルートは持たなかったと思われます、それにもかかわらず立派な前方後円墳がつくられたのは鶴見川下流の首長からモデルの提供があったからでしょう、谷本川流域の首長との従属的な同盟関係を仲介として間接的に大和政権に結びついていたといえましょう」

「芝は芝浦、芝浜でありまして、古来、東京湾に面した最も重要な港湾施設があったのではないかと考えられます、それだけでなくて、東海道における重要な拠点地域であったのではないかという考えもできます、おそらく、ここには物資を集積する倉庫群などがあり、それは芝という在地の経済活動というのではなくて、背後に東京湾を渡って房総半島まで進出する大和政権のメインルートとして、また南武蔵勢力の港として重要だったと思われます」

「ここから向こう側に行くと、姉ヶ崎古墳群が千葉県市原にあります、東京湾を見下ろす台地のへりには台大塚古墳(姉ヶ崎天神山古墳)があります、これは全長119mですが、やはり、8:6:4:6で芝丸山古墳と兄弟分といった形です、東京湾横断の安全を保証するネットワークを組む両岸の首長に大和政権が共通の造営企画を与えたのでしょうか」