入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”〈大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈13〉

「その頃の武蔵の政治構造を考えますと、110mクラスの大型前方後円墳が田園調布古墳群を中心にして、ある場合はその北東の芝丸山古墳、律令時代でいえば豊島郡の地域にもあらわれます、荏原豊島地区、特に芝公園のところは海に面し、渋谷川下流の小さな谷が入っているだけで、こういう大きな古墳を養うような平野はないところです」

「南武蔵でいえば、多摩川の本流に接した田園調布から野毛へかけての地域が実際に大きな古墳が集中しているし、ここが中心地だろうということはあるわけです、ある世代、そういうところから最高首長の墓が東京湾の沿岸に一時移った時期があったのではないかと思われます」

「一方では100mの宝莱山古墳、一方では110mの芝丸山古墳、2つの巨大古墳を狭い荏原豊島の地域で同時につくったと考えるのは不自然だと思います、芝丸山、宝莱山、亀甲山と続く3世代の首長系譜が南武蔵にあったということだと思います」

「一方、南側の鶴見川水系では、90mあるいは70mという白山古墳、観音松古墳という田園調布のグループからみるとやや規模が小さくなりますが、東日本の中では指折りの有力な古墳がつくられています、しかし、この両者の間には、規模の点からいって若干優劣があると思います」

多摩川水系でいうと、やや上流の野毛大塚古墳へと移り変わっていくわけですが、一方、さらに上流の砧の古墳群は60mクラスの前方後方墳がつくられ、やや遅れて狛江の古墳群では30mクラスの円墳の造営が始まり、さらに上流の八王子等では、弥生時代以来かなり大きな村がある地域ですが、前期古墳はつくられなかったようです」

「ですから、同じ多摩川水系でも、下流から上流に行くにつれて前方後円墳になったり円墳になったり、或いは古墳がつくられない、そういう不均衡があります、これは、ばらばらに不均衡な地域が並んでいるのではなくて、田園調布の大首長を頂点に、後の荏原郡多摩郡、そういう地域に幾つかの部族的なまとまりがあって、そういうものを統括する者が100mを超える大型前方後円墳に葬られた首長であるという構造が考えられるようです」