入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈11〉

「最近の研究では、東日本の初期の古墳は、一般的に中小規模の前方後方墳が優勢で、少し遅れて大型の前方後円墳があらわれるのが大勢である、というふうにだんだんになってきました」

「そこで、もう一度、南武蔵と北武蔵の古墳出現時期の状況(図B)をみますと、大雑把にいって大きな違いがあります、南武蔵は、芝丸山古墳を3期に置くということでは異論もあると思いますが、詳しいことは別の機会にして、芝丸山古墳、宝莱山古墳、亀甲山古墳と多摩川左岸に早くから大きな前方後円墳が連続的につくられています」

「さらに、その南の鶴見川水系では、川崎の白山古墳、日吉の観音松古墳、これも田園調布の古墳に準ずる規模の前方後円墳が連続的につくられているということです」

「つまり、南武蔵は初めから前方後円墳が優勢な地域、それに対して北武蔵は典型的な前方後方墳が優勢な地域なのです、先程お話しした西北の児玉地方は図Bには載せてませんでしたが、ここでも有名な鷺山古墳という古い前方後方墳がまずあらわれます、いずれも50mから60m、中規模な前方後方墳が北武蔵ではつくられます」

「現在の研究によれば、こういう前方後方墳のモデルは濃尾平野にあるのではないかと考える人もいます、つまり、古墳出現前夜に濃尾平野系統の土器が関東地方にかなりまとまって流入してくるのですが、それが古墳出現の前提条件をつくるような東海地方の勢力の東進があったことを示すのではないかというものです」

濃尾平野の勢力のシンボルは前方後方墳であるらしく、現に関東の初期の前方後方墳からは東海西部系統の土器が伴う場合が多いわけです、一方、前方後円墳が優勢な地域は畿内勢力と直接コンタクトをとっている、そういう地域である可能性があるわけです」