入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈10〉

「そのほか、お隣の信濃国造で、あんな大きな国ですが、1国造です、確かに信濃の国は、前期には善光寺平だけに大規模な前方後円墳が集中しており、後期になると伊那谷に大規模な前方後円墳が集中して、ここでは南北で力関係が逆転しています」

善光寺平で川柳将軍塚古墳とか森将軍塚古墳という100mを超える前期古墳がつくられているときには、伊那谷まで支配していたかどうかはわかりませんが、信濃では古墳出現期に伊那谷から飯山盆地まで南北に連なる盆地ごとに中小規模の前方後方墳があって、善光寺平の大前方後円墳へとつながっているわけですから、この場合には60kmぐらい天竜・千曲の水系をひとまとめにして信濃国があって、その中心に森将軍塚古墳に葬られるような大首長がいた、というふうな時期があったのではないかと思います」

「それでは、後の大国造国という大きなまとまりを持つようになるのは、何時ごろかということですが、最近、滝沢規朗さんが『武蔵における首長墓の変遷』という論文を書かれました、その中で『弥生時代にも北武蔵は北関東、或いは中部山岳につながる、また、南武蔵は東海地方につながる文化圏であって、両者をまとめるのはおかしい 」

「それから、最近問題になっている古墳に埋葬される場合の頭位方向を見ると、南武蔵の前期古墳と北武蔵の前期古墳では向きが違う、南武蔵は西北に向いている、北武蔵は群馬と共通して東北優位、という重要な指摘をしています、そういうことで彼も早い時期に、南北武蔵を統一して考えることに対して強く批判しております」